緑黄日記

水野らばの日記

話の通じない人間が着てそうな服

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よく古着屋に行く。

 

1点ものの個性的なファッションがしたいだとか、宝探し感覚とか、そういった小洒落た理由ではない。単に好みの服が古着屋に置いてあることが多いからである。あとは、『「古着屋さんに行くのが趣味だ」と言うとかっこいい』という政治的理由もあるが、これは秘密だ。

 

そうして、古着屋で服を購入しているうちに古着屋そのものも好きになった。愛は滲んでいくものである。今では古着屋を巡り、「背の低い恋人がこんな服着ていたらいいな~」という服を探して楽しんでいる。以前、古着屋に行った際、めちゃくちゃに可愛らしいビンテージ柄のワンピースを見つけ、その後、この古着屋の前を通るたびにワンピースが未だ店頭にあるかどうかを確認している。ああ、いつの日か、背の低い丸顔の女の子と一緒に古着屋を巡りたい。試着室でビンテージ柄のワンピースをひらめかせる彼女を思い描くだけで幸せになれる。これを実現させることができれば、今世はもうクリアである。あとはその女の子に貯金を全部預けてから全てを終わりにしてもいい。

 

先日、私は古着屋で頭を悩ましていた。

 

手元には可愛らしい柄のシャツがある。いかにも「話の通じない人間が着てそうな服」だ。話が通じないでお馴染みの私にはぴったりの柄シャツである。身体に充てがい、鏡の前に立ってみる。サイズも申し分ない。首元からぶら下がるタグを見てみる。値段も許容範囲内だ。もう購入してしまおうかしら。私の気持ちは前のめりだ。

 

「しかし」と私は思う。

 

服の好みというのは移りゆくものである。現に数年前の大学生時代に着ていた服はほとんど全て捨ててしまった。今この瞬間に「これいいな」と感じる柄シャツを買っても、服の好みが変わり、徐々に箪笥の奥の方へと追いやられ、最後はコンロ周辺を拭く布になり下がる可能性はある。それも、あまり着ないうちに。数回着ただけで、お払い箱となってしまうかも知れないのだ。

 

加えて、私も今年で26歳となる。もう大人としては「いい歳」と言えるかもしれない。ドレスコードのあるお店に通っていてもおかしくない年齢である。ジャケットとパンツのセットアップなど、小綺麗な「話の通じる人間が着てそうな服」も持っておく必要があるのではないか。いつまでも「話の通じない人間が着てそうな服」を身に纏い、猫背で河原町界隈をうろついているわけにもいかないのである。そろそろ他者の言葉に耳を貸して生きなければならない。

 

姿勢が後ろ向きになりつつ、鏡の前で逡巡していると、若い女性の店員さんがこちらに近寄ってきた。彼女は微笑みながら私に話しかける。

 

「そのシャツ可愛いですよね」

「そうですよね。可愛いらしいです」

「ちょっと、こちら向いてください」

 

私は彼女の方へと体を向き直した。彼女は視線を私の頭から爪先まで上下させる。

 

「よくお似合いですよ。サイズもぴったりだと思います」

 

そういうわけで手元の柄シャツを購入した。

 

またアパレル業界の策略に嵌められてしまった。可愛らしい女性店員さんに「似合ってる」なんて言われたら抵抗できない。私のような人間の搦手に付け込み、商品を購入させる。これを小狡いと言わずして何と言うか。メンズ売り場に可愛らしい女性店員さんを配置するこの所業、法律で禁止されないのか。司法は何をやっているのだ。

 

また「話の通じない人間が着てそうな服」を買ってしまった。これで、長袖の柄シャツだけで7枚になる。ファッションとして服を嗜まない人には「なんでそんなに何着も服を買うの?体はひとつしかないのに。しかも、あなたは平日にスーツを着ているでしょ。そんなに柄シャツを着る機会なんてないじゃない」と思われるかもしれない。私は言いたい。「その通りだ」と。

 

そうして購入した「話の通じない人間が着てそうな服」を着て、私はバスに揺られていた。ある停留所でお年を召したご婦人が乗り込んできた。車内は満席である。すると、中学生くらいの女の子が勢いよく立ち上がり、ご婦人に席を譲った。女の子の心優しき行動に、相対的に「高齢者に席を譲らない優しくないやつら」となってしまった周囲の大人たち。これはバツが悪い。しかし、私は大丈夫だった。高齢者に席を譲らない人間が着てそうな柄シャツを着ていたため、セーフだったのだ。単に「老人に席を譲りそうのない人間が老人に席を譲らなかった」ただそれだけである。