緑黄日記

水野らばの日記

美容師さんと会話を弾ませたい

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ある雑居ビルの前でぐるぐると低回する青年がいる。無論、僕である。

 

青年は眉間にシワを寄せ、奥歯に苦虫が挟まったような顔で雑居ビルのエレベーターをまじまじと見つめる。そして夏空を仰ぎ、マスクで口元を隠した通行人を見渡し、はぁとため息をついて、またエレベーターを見つめる。ひどく落ちつかない様子である。僕である。

 

僕は現状を作った一昨日の自分を恨めしく思い、かつ、自身の行末に逃げ出したくなるような緊張と不安に駆られている。実際に「逃げてしまうかしら」とも思っている。

 

 

一昨日の夜、僕は根城である安アパートでこれまたグルグルと低回していた。

フローリングの上をペタペタと歩き回り、電灯のスイッチをパチパチと切り替え、台所で水を出しては止める。僕は脳と身体がリンク機構で繋がっており、思考をグルグルと回すと、身体の方もグルグルと回さずにはいられない質なのだ。学生時代、成績が地面すれすれの低空飛行をしていたのも、一切は「試験中は椅子に座ってじっとしていなくてはならない」という悪しき風習に責任がある。成績は頻繁に墜落し、その度に大破していた。

 

僕は歩みを止めて暗闇の中にぼうっと光るスマートフォンを睨みつけた。

スマートフォンは美容院の予約画面を映し出している。美容院の予約の途中だったのだ。先ほどまで、軽快に指先を動かして、お店を決め、施術内容を選択し、日時を指定していたのだが、ある項目で指が止まった。『接客のご要望』である。この項目の下に『なるべく楽しく話したい』『なるべく静かに過ごしたい』『特にこだわらない』の3つのラジオボタンがある。この選択に頭を悩ませていたのだ。

 

スマートフォンでの美容院の予約はこれが初めてではない。いつもは『特にこだわらない』を選択している。これは消極的選択である。

例えば『なるべく楽しく話したい』を選択したとしよう。僕には自分がいつでも誰とでも日常会話に花を咲かせるほどの力量を持ち合わせていないという自覚がある。ここで、会話に躓き、「お葬式でももっと盛り上がるぞ」という空気になったとする。その場合、美容師さんは「こいつ、『なるべく楽しく話したい』を選択したくせに会話下手なのか。なんなんだ。営業妨害?」と思うことであろう。そして珍妙な髪に仕立てられる。

反対に『なるべく静かに過ごしたい』を選択したとする。この場合、「こいつ、コミュニケーションも取れない人間のくせに美容院でパーマ当てようとしているのか。なんなんだ。営業妨害?」と思われる。そして珍妙な髪に仕立てられる。

これはもう美容師さんに一任するしかない。そういうわけで、いつもは消極的選択として『特にこだわらない』を選択している。

 

お気づきの通り、僕の自意識はコンビニ店員のサービスのように過剰である。25歳の肉体を中学2年生が操縦しているようなものだ。早く、その操縦桿を年相応の自分に握らせ、この過剰な自意識を脱がなければならないことは理解している。しかし、得てして「理解」と「実行」の間には大きな溝があるものなのだ。

ここで『なるべく楽しく話したい』を選択すれば、過剰な自意識を脱却できるのではないかとも考えた。荒治療やショック療法という言葉もある。さらに、ここで美容師さんと会話を弾ませることができれば、これを緒にどんな人間とも会話に花を咲かせるような魔法の話術を手に入れることも夢ではない。その話術で背の低い女の子を籠絡することもできるだろう。

しかし、そんな夢想をする一方で、自分には美容師さんと会話を弾ませることなどできないだろうという諦念もある。女性の目をまともに見ることのできない自分に初対面の人間と楽しくおしゃべりなどできるだろうか。失敗すれば、美容師さんの機嫌を損ね、そこには珍妙な髪型が待っている。

 

そういうわけで、安アパートの中を落ちつかない様子で低回していたのだった。やがて、「もう、これがダメだったら人間と楽しくおしゃべりすることは諦めよう」と前向きで後ろ向きな思考で『なるべく楽しく話したい』を選択した。

 

場面を雑居ビルの前に戻す。

 

僕は未だ美容院のテナントが入った雑居ビルの前でうろうろとしている。暑さと緊張と不安で全身から汗が吹き出す。「ここでダメなら一生無理」と人生を背負っているのだから無理もない。やがて、予約の時間が迫ったため、バンジージャンプを飛ぶような心地で美容院に飛び込む。

 

「○時に予約していた……水野です……」

 

情けないくらいに情けない声が出た。情けない。若い美容師さんに案内され、鏡を正面に見据えた椅子に座る。ああ、美容師さんがタンクトップ姿のマッチョな人間だったらどうしよう。マッチョの美容師さんはどんな会話でも筋肉の話に繋げてくる。

 

「水野さんはお仕事とか何されてるんですか?」

「学校で理科を教えています」

「へぇ 理科の先生なんですか。人体の仕組みとかですか?」

「そうですね、そういうことも教えています」

「じゃあ、この上腕二頭筋(ポージングをとる)とか、大胸筋(ポージングをとる)とかも教えるわけですね(鏡の中の自分に見惚れている)」

 

そんな妄想をしていると後ろから声をかけられた。

 

「こんにちは、担当させていただきます〇〇です」

 

比較的背丈の低い女性の美容師さんである。笑顔が素敵な可愛らしい方である。操縦席に座っている中学2年生が「無理無理無理!」と泣き言を言っている。

 

結論を言うと、僕はしどろもどろになりながらも何とか会話を成立させることができた。これは僕がどうとかではなく、完全に美容師さんの手腕によるものである。会話の種になりそうな質問を振り、僕の拙い返答を広げ、僕が比較的喋れる部分を引き出せるような絶妙のパスをくれたのである。やはりプロは違う。彼女がどんどん話を振るので「こんなに話しかけてくれるとは、この女性、僕に気があるのでは?」と操縦席の中学2年生が勘違いをしていた。

 

「次は違う美容院に行こう」青年もそう思ったことであろう。