緑黄日記

水野らばの日記

ただ短歌を詠むだけの人になりたい

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『牧水の恋』という本を読んでいる。

 

歌人、俵万智さんの著書である。恋の苦悩を多く描いた戦前の歌人、若山牧水の痛切な恋の顛末、彼の心の動きを、彼の残した短歌から探っていく評伝だ。記録に残る牧水の行動や彼が友人らに送った手紙と照らし合わせ、牧水と、当時の恋人であった小枝子の間に何があったのかを紐解いていく。さながら安楽椅子探偵である。

 

僕は俵万智さんの短歌が好きなのだ。軽やかな思いつきで、ふっとできたような、三十一文字の中に、背後にあるぐちゃぐちゃとした心の動き、ドタバタしたストーリーを想わせる。『空白の美』とはよく言ったものである。俵万智さんの恋の短歌、広辞苑の『恋』の説明蘭に載せたほうが良い。

 

俵万智さんを好きだと言うものの、僕は未だ短歌ビギナーであり、たくさんの歌人、そして彼らの詠むたくさんの短歌に触れてきたわけではない。読んだ歌集の数も両手の指で事足りる。そのため、俵万智さんの短歌が好きなのか、短歌そのものが好きなのか、およそ判別がついていない。氷山の一角をピーラーで刮ぎ取ったものを全体像だと思い込んで愛でている状態である。滑稽ではあるが、可愛らしいのでよしとしよう。『かまとと』の語源のように、ものを知らないことが可愛げのある人間の条件なのだ。

 

『牧水の恋』を読む。

 

本書では、牧水の詠んだ短歌を俵万智さんがつぶさに解説している。短歌ビギナーの僕でも知っている『白鳥は哀しからずや空の青海のあをにも染まずただよふ』など、彼の詠んだ恋の短歌を、なぜこうもグッと来るのか、ここが良いよポイントを歌人の視点から炙り出している。この解説では、俵万智さんの短歌を「なんかわかんないけど、なんかいいよね。なんか好きだわ」とふわふわと眺めていた僕の「なんか」を綺麗に言葉にしている。なぜ僕はこれが好きなのか。自分の「好き」の理由が明らかになっていくことほど嬉しいものはない。

 

本書の中で、牧水についてにこういった記述がある。

 

無武備に(本当は防備しているのだが)自分を信じ切っているその美しい寝顔を見つめて、できるのは歌を詠むことくらいである。

 

牧水は、隣でスヤスヤと眠る恋人未満の想い人、小枝子を見つめる。彼は彼女と肌を重ねることを夢見るが、恋愛経験に乏しい彼にとって、強気に肌を重ね、なし崩し的に恋愛を進めることはできない。彼にできることといえば、短歌を詠むことくらいであった。こういった内容である。僕は思った。

 

「できるのは短歌を詠むことくらいである」になりたい!!!!!!!!!!!!

 

興奮して声が大きくなってしまった。横たわる現実に対して、それに流されるでも抗うでもなく、「僕にできるのはこれくらいだよ」とただただ短歌を詠む人になりたい。なりたい。格好いい。絶対に覚えてもらえるし。仕事場に外線がかかってきて、「水野さん、いらっしゃいますか?」「水野は3人おりますが」「あの、できるのは短歌を詠むことだけの水野さんです」「承知いたしました。お繋ぎしますね」となる。例えば、もし僕が「できるのは短歌を詠むことだけ」になったらどうなるのだろうか。

 

なんたる失態だ。僕は慨嘆した。時計は10時を回っている。寝ぼけ眼は完全に開き、事態の深刻さに頭がグルグルと回る。1時間目の授業は確か1年生であったか。生徒たちは、授業に先生が来ないという非日常にキャッキャしていることであろう。布団から這い出し、スマートフォンを確認する。着信の嵐だ。事務、学年主任、教頭、同僚の先生というラインナップが、ことの重大さを突きつける。この純然たる寝坊に対して、僕ができること、それは学校に電話することでも、慌ててスーツを着ることでも、理路整然とした言い訳を考えることでもない。短歌を詠むことである。僕はベッドに再度潜り込み、スマホのメモ欄に三十一文字を書き殴る。

 

格好いい。慌てない男、芯のある男とは僕のことである。上司に遅刻を怒られている時も、釈明などせずに、ただ短歌を詠み聞かせたい。

 

試合終了間際、1点ビハインドの場面で試合に投入される時も、芝生に座り込み、試合をよそに短歌を詠んでいたい。血で血を洗うデスゲーム中にも、「僕にできるのはこれくらいだから」と、諍いとは関係ないところで短歌を詠んでいたい。あと、普通に牧水と同じ状況、好きな女の子が隣で寝ているのに手を出せなくて短歌を詠みたい。

 

俵万智さんの歌集『チョコレート革命』が好きです。読んでください。