先日、aikoがストリーミング配信、並びにYouTubeでのミュージックビデオの配信をスタートさせた。これで僕の昔から使っているiPodはRADWIMPSとHamp Backを聴くためだけの機械となってしまった。最近もYUKIがこの地を去ったばかりである。こうして誰もいなくなってしまうのか。寂しいものだ。
aikoの楽曲には一貫した彼女の色がある。それはメロディ、コード進行、歌唱法などに見受けられるが、やはり特筆すべきは歌詞である。aikoは常に『あたし』と『あなた』について歌う。aikoの紡ぐ物語の中で『あたし』は『あなた』を想っている。aikoの楽曲は、少し背の高い『あなた』になって聞いてもいいし、性別を飛び越え、テトラポットに登る『あたし』になって聴いてもいいのである。そこにaikoの良さ、そして怖さがある。
aikoがサブスク解禁したことで、aikoを通ってこなかった人にaiko経験者がaikoを布教する行為が散見される。aiko経験者、とりわけaiko熟練者(ジャンキー)はaikoをアーティストや音楽家というより『なるもの』だと考えている節がある。「あなたはまだaikoでないのね、aikoを聴いて一緒にaikoになりましょう」と言った感じである。
僕がaikoになった日を思い出す。
ブラインドを上げ、窓を開ける。
むわっとした熱気が顔を撫でる。グラウンドでは野球部員が大声を張り上げながら白球を追いかけていた。奥の方を見るとサッカー部が練習をしているのが小さく見える。
「やってんねぇ」
僕は誰に言うでもなく小さく呟いた。この生徒会室には僕ひとりである。視線を窓から移し、室内を見渡す。中央には長机がふたつくっついており、その周りをパイプ椅子が取り囲んでいる。右手側の壁は書物や資料をいっぱいに携えた大きな本棚が覆っている。一方、左手側には2人掛けのソファがあり、上の方で古いエアコンがてけてけと可愛い音を立てている。
僕はサッカー部に所属しているが、生徒会長に就任し、この夏の間は生徒会活動に勤しんでいる。生徒会長という大義名分を得たことで、サッカー部の練習を堂々とサボることが出来る。サッカーを8年近く続けてわかったことであるが、灼熱の太陽のもと、走り回るのは正気の沙汰ではない。
視線を再度窓の外に向け、白球を追いかける野球部員をぼーっと眺めていると、後ろでガラガラと扉が開く音がした。
「あっ、先輩いた!いるんなら言ってくださいよ」
ひとりの女の子がズカズカと部屋に入ってきて、ぼんっとソファーに座った。
彼女は一学年下の生徒会役員である。彼女とは数ヶ月前に生徒会が発足してからこの部屋で何度も顔を合わせていた。この時期は生徒会の活動はなく、生徒会室は他の生徒会役員や先生も滅多に訪れずれないため、ここは僕の城となっていた。しかし最近、何故か彼女もこの部屋に頻繁に出入りするようになった。この安寧を犯されていい迷惑であるが、彼女も生徒会役員であるため無下に追い返すわけにはいかない。
彼女はおもむろにリュックから白いポータブルCDプレイヤーとCDを取り出し、CDの封を開けながら言った。
「買っちゃいました新曲、やっと買えましたよ」
「何の新曲?」
「まあそれはいいじゃないですか」
彼女はCDをセットし、イヤホンを耳にはめた。そして、再生ボタンを押そうとしたのだが、手を止め、イヤホンを片方外してこちらを向いた。
「えー、何聴いてるか教えて欲しいですか?」
「別に教えなくていい」
「先輩がそんなに言うなら教えてあげてもいいですよ」
彼女はいたずらっぽくそう言うと、スカートの上に落ちたイヤホンの片方を手に取り、僕に差し出した。仕方がない。僕は彼女の隣に座り、彼女の手からイヤホンの片方を受け取った。そして、彼女は再生ボタンを押した。
女性のやわらかい歌声が聞こえる。男性に片思いする女性の恋心を歌った曲であるらしい。甘酸っぱく、そしていじらしい乙女心が胸に響く。
ふと顔を上げると彼女と視線がぶつかった。『吸い込まれるような目』とはよく言ったものである。彼女の茶色がかった瞳に意識が取り込まれそうな感覚になる。すると、彼女は何かに気がついたようにハッと小さく息を漏らし、ほんのりと頰を赤らめて視線を外した。
「あ、あー、えーっと、トイレ行ってきますね。先輩はそのまま聴いといてください。」
彼女はそう言うと立ち上がり、早足で部屋を出て行った。
ガランとした生徒会室には僕ひとり残された。頭上では古いエアコンがてけてけと鳴いている。
僕はソファの上に残されたCDを手に取った。茶髪の女性が手の甲に顎を乗せている。その横に白い文字でこう書いてあった。
初恋/aiko
お客様の中にこのような経験をお持ちの方はいらっしゃいませんか。