会社からの帰り、猫を見つけた。
僕は猫が好きである。島根の実家で暮らしていたころに、隣の家に住む老夫婦が飼っている白猫をよく触りに行っていたし、なんなら社会人になった今でも帰省した際にはこの猫を触りに行っている。ペットショップで猫を眺めるだけの休日があったりする。猫がにゃーにゃーと鳴く動画を見て、一緒に「にゃーにゃー」鳴いてみたりする。最後に関して読者諸賢は意味が解らないと思うが、僕もわからないので安心してほしい。
そんな僕なので会社からの帰り道はもっぱら猫を探しながら歩いている。向かいのホーム、路地裏の窓、そんなとこにいるはずもないのに。通勤時にこれをやって遅刻した前科があるので帰り道のみの行為としている。
猫を掘り当てることは難しいが、今日は猫を見つけることが出来た。古風な屋敷の石塀の上で憮然とした態度で鎮座している。屋敷の窓から漏れる光がふわふわした毛のその一本一本を照らしている。白と茶色と黒の三毛猫で、体は大きくまんまるとしており、ころころと転がっていきそうである。
僕はこの猫に近寄ってみた。猫はその場から動かず目線だけこちらにやる。細く、ふてぶてしい眼で僕を見つめる。可愛い。もふもふしたい。可愛い。猫だ。可愛い。吸いたい。
人間には三大欲求と呼ばれる『食欲』『睡眠欲』『性欲』をはじめ、様々な欲求がある。そもそも、欲求とは、生命を維持し、環境に適応していくのに必要な均衡状態がくずれた場合に、これをもとの状態に戻すために行動を起そうとする状態のことを言う。人間という生命体において、この欲求に順位をつけるとすれば、8番目にあたるのが『猫もふもふ欲』である。人間は日々の生活の中で心に住む猫、実際は脳の前頭葉のはたらきであるが、ここに住む猫が減っていく。これは数とか、量とか、色彩とかではなく概念上の猫である。この減少した概念上の猫を取り戻すために、人間は行動を起こそうとする。これが『猫もふもふ欲』である。猫と会話したり、猫を触ったり、「猫」と叫んだり、猫になってみたりすると解消される。無論、これは僕が今考えたものである。
僕は石塀の上で丸くなる猫に話しかける。「こんにちは~ここのおうちの猫ちゃんですか」
猫はじっとこちらを見つめている。
「野良猫さんですか」
猫はこちらを見つめている。
「にゃー、にゃあ、にゃにゃ?」
猫はこちらを見つめている。
「お名前はなんていうんですか?」
猫は欠伸をするとこちらを一瞥し、塀の向こうに消えていった。
もっとお話をしたかったが、僕は会話に付き合ってもらっている身である。仕方がない。それに、僕の『猫もふもふ欲』は十分に満たされた。これで1週間はもつだろう。僕は塀の向こうにいるであろう猫に「ばいばーい」と言って、この場をあとにすることにした。
振り返ると、当惑した表情のおばさんが立っていた。顔には『110』という数字が薄っすらと書いてある。彼女の震える唇から「ば、ばい…」と声が漏れた。
おばさんは間違っていない。完全に不審者とエンカウントしている。警察を呼んだ方がいい。